神薙祭・序
ーー ずっとずっと 夢を見ていたような感覚が拭えなかった。現実としてあったことなのにーー
神薙ぎの神事を前に私はかなりの緊張から神経が過敏に研ぎ澄まされ、神殿の周りに
焚かれた幾つもの篝火のぱちぱちとした薪の爆ぜる音までが耳に響いて煩いほどに。
神事の警備に来られた王族特務の方々の物々しい霊圧が余計に緊張と不安を煽る。
百目鬼家の神事への介入・妨害を懸念して朽木の蜘蛛達も警備に加わっていたーー
そんな周囲の緊迫して張り詰めた空気がさらに重さを増して私を圧し潰す。
着替えも済ませた控え室で緊張のあまり吐き気まで催す私を見かねた藤乃が
「水を持って参ります、ルキア様。」 と部屋を慌てて出て行った。
ーー情けない。 覚悟が足らぬのだ・・・・。
広く大きな鏡の据えられた控え室に一人取り残された私は椅子に座り、
己を抱き締めて かかる不安にうち震えていた。
ーー私一人の辱で済むことではないのだ・・・・・
朽木家だけではない 養親二人の名誉もかかっている
失敗は許されない
何より失敗は 『死』を意味していた
『死ぬ事』も怖いが・・・・・
死んで責務が果たされる訳でも赦されるでもないのだ。
そんな重責に泣き出すこともできず ただただ吐き気と戦い、身体の震えを抱き締める両手で
抑えることしかできなかった。
今さら・・・ 誰かに縋る事も助けを求める事も出来ないーーー
空気の乱れを感じて 顔を上げればーー 貴族らしい直衣姿の少年が微笑んで立っていた。
白地に金糸銀糸で幾重にも鳳凰を描いた直衣から朽木に負けぬほど身分の高い家の者だと
分かるけれども、他家の控え室に無断で出入りが許される程幼くもなかった。
突然現れた少年の高貴な様子に気負された訳ではないのだが、その優しい微笑みに不審者と
して無礼を咎めるよりも先に 懐かしさを覚えて いったい いつどこで会ったのだろうと
懸命に記憶を探すーー
姿の優美さは眞尋や白哉兄様を思わせ、屈託のない笑みはてつじぃや志波海燕殿の様に人柄の
温かさを感じさせるーーーいずれかの親族・縁者の方なのか・・・・
そんなことを考えながら何も言えずに不躾なほど呆然と見つめていた私に質量感を全く
感じさせない足取りでふんわりと近づいてきた。
傍で見ると思っていたよりも大人びた顔で 手を伸ばして柔らかな指先で頬を触れるーー
「ルキア・・・ 何をその様に恐れるのじゃ?」
不思議な薄い色の瞳が私の瞳を覗く。
「てつじぃも眞尋もそなたの事を紛れも無く”本当の娘”のように愛していた。
彼等への想い故にそなたも彼等を忘却せぬように今までずっと守ってきたーー」
穏やかに微笑んだままゆっくりと近付いた唇が唇に触れた
瞬間ーーーずっと長い間 澱の様にたまり、わだかまっていた胸の中の痞(つか)えが
氷解したようにゆっくりと溶け出していく・・・・・
私を捕らえていた緊張の糸がゆっくりと解(ほぐ)れていったーー
てつじぃと眞尋が残したものは私の中に間違いなくあるのだーー失くしてはいない
”恐れ”に立ち向かえる ”自信(自身)”にも似た”力(勇気)”を取り戻す。
少年の中に不思議な懐かしさがーーてつじぃと眞尋 戌吊の仲間と恋次 兄様や清家
傍にいてくれた人達の顔が浮かんでは消えて 同時に私の中の返せなかった・・・・
返したかった想いが溢れてーー涙が止まらない
「大丈夫ーーそなたはずっと頑ななほど守ってきたのだ
失敗を懼れずに立ち向かうが良いーー ”愛されし吾子”よ。」
その言葉を最後に
気が付けば 少年の姿はかき消えていたーーー
現実であったのは間違いないのに
ずっとずっと夢見ていたような感覚ーーーただただ懐かしく温かい想いに涙した
後に兄様に伺ったーー
二十七年に一度 神薙ぎの神事にご臨席されるーー 霊王陛下 ーー
世界の全てを統べる方 ーー世の始まりでであり、全ての魂魄を紡がれる大神
”巨大な力”ゆえに 力の一部だけを御簾の中の形代に映されて神事にご臨席される
けれど、気紛れに戯れに我々の前に陽炎のように現われる事があるのだ
そう仰って珍しく兄様が苦い顔をなさった。
実体を持たぬ方ゆえに男で 女で 老人で 子供でもあり、そのどれでもない方
見るものによっても印象も 姿も変わる
唯一変わらないのは ”懐かしい”という感覚
ーー全ての魂 魂魄を紡がれたのだ 懐かしく感じない訳があるまいーー
神薙ぎの神事の毎に兄様の許にはいらっしゃるらしい・・・・ けれど
苦々しい顔をなさってそれ以上詳しくはお話して下さらなかった。
あとがき
神薙祭について